鎮静月とは
動機が、現実を創る。
これが、鎮静月ラボの、いちばん奥にある考え方です。
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願いを、言葉にする前に。
その願いが、どこから来ているかを見る。
不安から願うのか。
豊かさの延長として願うのか。
同じ言葉でも、動機が違えば、その後の現実は変わってきます。
思考が現実を創る、とよく言われます。
感情が現実を創る、とも言われます。
でも、もう一段だけ奥に、動機がある。
言葉になる前の、その動機が、現実を決めている。
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ただ、この考えは、聞いただけではなかなか腑に落ちません。
動機の多くは、自分でも気づいていないからです。
気づいていないものは、説明されても実感が湧かない。
だから「動機が現実を創る」と聞いても、自分の動機が見えないうちは、他人ごとに聞こえてしまう。
そこで鎮静月ラボは、この考えを正面から説くのではなく、
月のリズムという、繰り返し観察できる手がかりを使います。
新月のとき、何を思っていたか。
鎮静月のとき、何を感じていたか。
それを、毎月、静かに記していく。
一度ではわかりません。
でも巡りを重ねるうちに、線がつながってきます。
——あのときの動機が、今の景色になっている、と。
教わるのではなく、自分で気づく。
月は、その動機を映す鏡です。
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心理学から見ても、同じことが言われています
深層心理学者のユングは、こう記しています。
内なる状況が意識化されないとき、それは外側で、運命として起こる、と。
気づかれない内側は、消えるのではなく、
「外からやってくる出来事」として体験される。
「動機が、現実を創る」を心理学の言葉に置き換えると、これに近いのです。
ユングはまた、光の像を思い描くだけでは人は啓かれない、とも言いました。
啓かれるのは、暗闇を意識化したとき。
動機に光を当てるとは、動機を正すことではありません。
不安からの願いを、責めることでもない。
ただ、そこにある動機を見る。暗いままの動機を、意識の光のもとへ置く。それだけです。
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正そうとしないほうが、澄んでいく
ユングは、道教の「無為」に触れながら、こんなことも書いています。
心のなかで起きていることに、こちらから干渉しない。
いちばん深い変化は、外から、上から、コントロールしないときに起こる、と。
これは、老子の言葉とも重なります。
濁った水は、かき混ぜて澄ますものではない。
静かに置いておけば、濁りは自然に沈んで、澄んでいく。
動機も、同じです。
正そうとするより、静かに見守るほうが、自然に澄んでいきます。
だから、このサイトは「正しい動機で願いなさい」とは言いません。
ただ、月のリズムに沿って、問うだけ。
新月のとき、あなたの内側はどこにあったか。
その動機が、今、どんな現実になっているか。
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繰り返すうちに、いつか腑に落ちる日が来ます。
外で起きていることは、実は、内側で始まっていた。
動機を、正すのではなく。
動機に、気づく。
見えなかった一行が見えたとき、
現実は、外からやってくるものではなくなります。
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参考・出典
「内なる状況が意識化されないとき、外側で、運命として起こる」
C.G.ユング『アイオーン』(野田倬 訳・人文書院/ユング・コレクション4)§126
※ネットで広まっている「意識化しなければ、それを運命と呼ぶ」という一文は、後世の短い要約で、ユング自身の記述ではありません。上が実際の趣旨です。
「光の像を思い描くのではなく、暗闇を意識化する」
C.G.ユング『錬金術研究』(英語版全集CW13『哲学の樹』)§335
「心のなかで起きていることに干渉せず、起こるにまかせる(無為)」
C.G.ユング『黄金の華の秘密』への注釈(英語版全集CW13所収)
「濁った水も、静かにしていれば、やがて澄む」
老子『道徳経』第十五章

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